ふと、大学の頃過ごしたトコは今どうなっているのだろうかと思うことがありまして、
たまにmixiコミュや2ちゃんスレを探したりします。
(mixi掲示板は、話題の展開にいまいち勢いがないかなーと感じることがありますが、管理人がいてある程度信用のできる発言を眺めることができてよいです。
2ちゃんねるはご存じの通り根拠のない噂や暴言のオンパレードですが、発言者の本音を聞ける感じがするところが好きです。話題のキャッチが早いのもこっちですね。)

で、見つけた情報。
ポパイとふぉる亭が閉店してたなんて~~~~!!!
目を見張るほどのさまざまなサンドイッチが売られてたあのお店(個人的には具だくさんのポパイサンドがお気に入りでした)と、
夜7時過ぎの入店でハンバーグを400円ぐらいで食べられたあのお店。
どっちもなくなってたなんて~~。うぇーん。

それにしても、近所にあったミニストップまでなくなったみたいだし、大丈夫なんでしょうかJR新検見川駅周辺(汗)。
そりゃまぁ、隣の稲毛に比べれば地味~な存在の街ですけど(「どこ、それ」と聞かれた回数は数知れずw)、みんなが生活してる普通の住宅街って感じで好きなんだけどなぁ。
遠い第二の故郷をちょっと心配する。

ニュースを見て、そこからいろいろな日記にリンクして読むのが好きです。
物事に関するいろいろな視点を知ることができるので。
結構みんな真面目だねー。慎重に考えるのって大事だなー。
…とかとか、そんなことを感じます。
はっきりいってニュースを読むというよりも、そっちの楽しみというか学びというか、そういうモノのほうが大きいです。

で、今日一日くぎづけになっていたニュース日記一覧があります(どんだけ暇やねん)。
さいたまで、23歳のお母さんが1歳の娘を踏みつけて虐待、娘が死んじゃったっていうニュース。

いやー。
虐待って最近増えてるのか?それともマスコミの報道回数が増えてるのか?たぶんどっちもなんですかね。
切ないですね。
あ、感情論だけで片付けては前進できないかな。
いや、感情を大事にしないと現状改善に向けた力も出てこないんじゃないかって気もする。

話を戻しますね。w
クールな意見が集まるはずのミクシィニュース日記が、今回ばかりは頭に血がのぼった意見の集合体と化していました。
どんな日記が多かったかというと……
「母親には子どもを産む資格なし」
「1歳の子どもが懐かないというのはおかしい。1歳ならばかわいくてしょうがないはず。愛情をかけてあげればそんなことにはならない」
「この母親も、子どもと同じように腹を踏みつぶされて死ねばよい」
「この母親は人間ではない」
等々。
自我をもたず、本来守られるべき子どもがらみの犯罪ということで、熱くなった人が多かったのでしょうか。
…にしても、読んでておっかなくなりました。

そんな中、こんな意見を述べている人がいました。
「わかりやすい犯罪者、つまり責めやすい立場にある人を見つけると必死で叩く人が最近増えてきた」
そーよね。そーよね!!!
それなんだ。私がこのニュース日記をいろいろ見てて感じたモヤモヤは。

このお母さんの背後にあるいろいろな事情が見えてるかどうかは、人それぞれです。

産む資格なし!っていわれても、もう産まれちゃってるわけだし。
「産む資格なし」の言葉は、結果的に産まれた子どもにとって「生きてる資格なし」の言葉になる可能性があります。
また、ダンナも子作りにかかわってるわけなのに、なぜ母ちゃんだけが標的にされねばならない?
このニュースの情報だけではわからないけど、懐かない子どもには自閉傾向があったかもしれない。
また、愛情をかけてやれるだけの余裕がお母さんにあったかどうか。
ダンナはいないみたいだから、夫の子育て参画度はほぼゼロ。子育てを支援してもらえる環境があったかどうかも、この情報ではわからない。
シングルマザーで子ども3人、しかもアルバイト収入のみっていうのは子どものいない私が想像しても凄まじい生活です。自分の生活もままならないだろうに。
母親を殺してしまえ、という意見もどうかと。それはつまり、自分にとって「間違ってる」って思える存在が現れたときにイコール抹殺、という手法をとりかねないよね。もし、そのターゲットが自分の子どもだったら、その人どうするんだろ。きっと迷いもなく殺しちゃうんじゃないだろうか?
中には「この母親を殺すべし」として、どんな方法で殺すかってことでコメントが盛り上がってるところもありました。
人間って怖い。

このお母さんがとった行動は許されません。
だけど、それをすべてお母さん自身の個に帰してよいのか。
産む資格なし論も母親失格論も、どっちも後出しルールだよね。
後出しルールは原則、使いものになりません。
大事なことはこのお母さんを懲らしめることじゃなくて(ましてやニュース日記を自分の感情のはけ口にしてスッキリすることではなく!)、このお母さんの意識を変容させて、さらに世の中の虐待を減らすことでしょうが。

少ない情報で、簡単に変換して、簡単に、できもしない残酷なことを言ってる。
思考が停止してないか?
わが夫が、泊まりがけの用事でこの週末自宅にいません。
たまに過ごす一人の休日はサイコー(だと思いませんか、妻&同居女性の皆さんw)。

夫のワンボックスでちょいと遠出して、
大きな本屋さんで延々と立ち読みをしまくり、
大きなドラッグストアの中を延々とウロウロする。

大好きなところで過ごす大好きな時間。
…って、うはっ!なんて安上がりの妻だ!!
(しかし私の知ってる限りでは、あまりに安上がりの妻は、逆にお金の価値観にとらわれない物凄い思想や信念をもっていることが多いので、一見都合がいいようでいても数段に面倒くさいですよw男性のみなさん。余談でした。)

家に帰って、マイペースに家事をする。
TVをつけない静寂の中、本を読む。ゴロゴロする。
缶ビールをあけ、適当に夕食をとる。

はっ。
いつもなら普通に食べてるのが、おいしくない。
一人暮らし時代はこんなことで味覚が変わるなんてなかったのに、あらためて自分にビックリ。
お酒だって、夫はもともと好きじゃないから飲むときは私だけが飲んでるにもかかわらず、缶ビールの中身が、今日は、いつまでも、ある。
配偶者のいない生活を感じて凹むって、こういうことかー。

「食」以外は、まったく問題ないのに(むしろ楽しいのに?w)、
「食」に関するモチベーションが下がるんだね。
不思議ですねえ。
久々の更新です。
振り返ってみると毎年、年度末年度初めには更新が滞ってますね。
本業のほうがオーバースペック気味でした(まだ続いてるけどw)。
ホント、こんな時期でもちょくちょく更新してるガッコの先生って凄い。頭の中のOSは何ですか。

ってことで、新年度が始まりました。
昨年度は自分自身が新入りだったんだけど、今年度は転入職員の方々を迎え入れる立場にあります。
自分自身、4月1日からの短い間ですが「んん??去年と違う!!」と感じたところがいくつかありました。
客観的な昨年度との違いを含めて、思うことを書いてみます。

☆平均年齢が上がった。
つまり、転出職員よりも転入職員の方が年上、ってことですね。
さらに、昨年度の転入職員、すなわち私と同僚数名よりも年上の方々がいらっしゃいました。
結果。
これまでのシステムを含めた学校のあり方に対し、フツーに異論を述べても違和感なく受け入れられる雰囲気ができつつあります。

学校という職場は、多くが年功序列で年長者優先にできています。それが吉と出るときもあり、凶と出るときもあります。
昨年度ここに入ったとき、毎日毎日それはそれは多くの「?」と闘いながら生活してきました(www)。
そこで、職場にいた職員の方々に多くの「?」をぶつけてきました。
が、疑問を疑問と捉えてもらえないことも多々あり、結果的に「文句ばっかり言う新入りが来た」と思われてるんじゃないかと感じては恐々としてました。
(でも、文句を言うべきところは言い続けてましたけど。フフフ)

それが、この年度初めはどうでしょう。
年長者の方々、つまり重要なポストに即戦力として就く方々が来られてからというもの、改善に次ぐ改善です!!まだ数日しかたっていないのに。
年が上ってことは、それだけ経験に基づいた自信がついてるってことなんだなぁーと、惚れ惚れしながら転入者の方々を見ている毎日です。
経験に基づく根拠をつけてバシッと意見することもできるし、
今までのシステムよりも子どもの視点に立った(しかもずっと効率的だったりもする!)システムを構築し始めたり、
なんだかスバラシイ。

昨年度、1年間かけても変えられなかったことがメキメキと変化していく様子を見て、私もそれなりに年齢を重ねてキャリアアップしたいなあって思いました。

☆A型が増えた。
血液型で語ることは偏見になること間違いなしなんですけど(w)、
日本人のライフスタイルとして、血液型文化をふくめた環境がその人を形成していくってことはあると思うんですよね。
ってことで血液型の話。

私自身はA型です。
O型っぽいねって言われたり、おまえB型だろうって言われたりすることもありますが、基本的には細かいことがいちいち気になったり、場の雰囲気を読むことに必死になりすぎて要らぬ疲れを背負い込んでしまうA型だと自覚しています。

昨年度の職場は、自分自身今までに体験したことがないほどB型人口が多い状態でした。
職場に仲間入りしたときから、みんながそれぞれ何の迷いもなく自分のカラーを前面に打ち出していたもんで、
その中にポッと入った私は「いったい誰に合わせたらいいの!?!?」と一人迷う場面がとっても多かったです。
で、とりあえず誰かに合わせたところで、基本的に人に合わせることに興味のないB型にとっては意識すらされてない!ってことを痛感しました。ウエーン。
常に「いつもの自分」でいられるB型人間が、とてつもなく羨ましかった1年でした。

そしてこの年度初め。
B型の職員が減り、代わりに入ってきたのはすべてA型の方々。
そこで気づいたのは、自分自身の置き方でした。

A型人間は、人付き合いにおいて基本的に受け身です。
会話のスタートはいつも相手の話題からです。
んで……受け身の人々がここに集結したわけです。
雰囲気的にはあったか〜い職場になりました。でも、今まで主にB型の人々が発する「自分(ときに、強烈だったりもする)」に話を合わせていればよかったのが、随分変わってしまったわけです。

A型の皆さんに「ともこ先生は、○○なんですか?」「ともこ先生は、△△ですか?」と訊かれることが、ホントに増えました。
その度に、「えーっと…□□ですかね」とか「う〜ん…◇◇かもしれない…あーでもよくわかんないです、アハハ…」とお茶を濁しぎみに返す自分。

…はっ!!私、自分がないじゃない!!
ここで改めて、自分自身「人に話せる自分」がサッパリ未完成だったことに気づきました。
B型の人からすれば、「人に話すも話さないも、自分は自分だろう」と思われるかもしれませんが、私は身構えてしまうのですwww
とりあえず、職場に残っているB型の方々に学ぶことにします。。。

久々に大量更新(ほんと、量だけw)をしてしまいました。
こんなに書きたくなったの、久しぶりだなぁ。
愛するIBMのノートパソコンが外見的に寿命っぽくなってきたので
(カバーにヒビが入る・蝶番部分の部品がポロッともげる)、
そろそろパソコンを買い換えようかな、と思って即実行しました。
VAIOの新発売のやつに決定。赤いカバーで黒いキーボードのものです。
黒っぽい外見のパソコンが、めっきり減りましたね。ちょっぴりさびしい。

前のものを8年も使い続けてたおかげで、マイPCは目からウロコものの超進化です。ポケモン風。
OSはWin98→Vista。
システムメモリは64MB→2GB。
ついでに、インターネット環境も新しくしちゃったもんで、これもすごい。
ダイヤルアップのアナログ回線からヤフーBBの50Mタイプにしちゃいました。

「新しくていいね」的な感想よりも、「そんなに古い環境にいたの!!!」的な感想をもらうことが多いです。まあそうなんだろうな。
実際、最近はこの化石IBMちゃんを仕事で使うことはほとんどなくなってたので、私用だけならまあまあ使えちゃってたんですが。
それにしてもインターネットは結構苦しかったですけど。w

8年の歳月を経て思うことは、
パソコンが何だかオシャレになっていた、ということ。
どんどんスタイリッシュになっていった結果、「パソコンじゃないみたいなパソコン」ばかりが並ぶ店頭になっていたことが、少々残念でした。
まずパソコンありき、の視点で機能美を追求するIBMの堅気な姿勢が好きだったので。
昔はパソコンが事務用品の域を脱してなかったから、しびれるほどシンプルなデザインが沢山あったんだろうなと思います。
ボクそういうのの方が好きなんですよね。パソコンもデジカメも。ケータイも。

最近のIBM、会社そのものがパソコン事業を中国の会社に身売りしちゃったじゃないですか。
それでもあのデザインが好きなの!と言って手に入れることは簡単です。
でも、なんかそれって、機能美を追求してるものに対して本来の機能を棚に上げちゃってるような気がしたんで、IBMにはしませんでした。

機能美は、その中の「美」だけを取り上げて評価することができないんでしょうね。
先日、めっさ仕事を持ち帰ってきた夫に、漢字テストの○つけを頼まれました。

私が○つけし終わったものを見て、夫が唖然。
「おま、おまえ!これ、○にしちゃダメだってー!なんでそんなに○つけが甘いの!?もー信じられないぃぃぃぃぃ」云々。

夫「この漢字のこの部分、はねてないからダメでしょ??」
私「いや、紙の余白にに練習してる同じ漢字がちゃんと書けてたから、この子多分わかってるんだよ。だから○にした。」
夫「あのねー。そっちに書けてても、このマス目の中にちゃんと書けてなければ×なのぉー!…もー、こんなこと常識でしょうが。」
仕事を任せて少し楽になるつもりが、余計な仕事を嫁にもちかけられた風にも見える夫。ごめんよ。

しかし!
「こんなこと常識でしょうが」の「常識」に、養護教諭としての脳細胞がピキーンと疼きました。

私「あのねー!!!
一般の先生たちの常識でいけば、マス目の中にきちんと書けていなければ絶対×なんだろうけどねぇ、私らのような養護教諭の考え方でいったら、その子がちゃんと書けているなってわかったら、もうその時点で○なんだよ!私らは子どもに完璧な正しい姿なんて求めてないんだよ!それが養護教諭の常識なのっ!!」

夫「養護教諭の常識なんて知らん!今はテストなんだから、今度からは厳しくやってちょうだい。テスト以外のところでちゃんと褒めたり励ましたり、フォローしてるんだから、余計な心配すんな!」

私「むー。すみませんでしたねーだ!(…以下、涙目で○を×に直す自分)」

あらためて、教諭と養護教諭の頭の中って違うんだなぁ〜と感じさせられる出来事でした。
ちょっと前に買った本「養護ってなんだろう」を、昨日読み終わったところで思い出したこの出来事。
そ、やっぱり私の職業の本質は「教える」ことじゃなくて「育てる」ことなんだ。
ある意味、あのとき「…常識!?」って頭にひっかかるものがあって、よかったと思います。教諭との違いを認識できてたってことで。

勉強教えるだけなら塾でいい。
勉強なんて大したことないやー、元気に仲良く過ごそうねヤッホー!…ってのだけでよければ、もはや学校じゃなくてデッカイ保育園になっちゃう。
ガッコーは、教諭と養護教諭のワザとハートの分業です。多分。
やばいんですよーシアワセを感じちゃったんですよー。


…生協のチラシを見ててwwwww


月1でどっさり届くんですよね。職場に一人ずつ。
で、じっくり読みたいのを我慢しつつ仕事をして、
家に帰って夕ごはん食べながらじっくり見るわけですよ。
生協だと、「こだわりの食品」系の商品が充実してて面白いです。
ってか、そもそも読んでるこの時間がこの上なくシアワセです!!
どーしちゃったんでしょうね私。
ま、どうってことないんでしょうね私w
同僚(年下♂)と飲んできました。
彼も、私と同様この4月からの転入組です。
詳しくは書きませんが、お互いにいろいろと職場について考えるところがあったので、是非一度飲みましょう!と言っていたことの実現でした。
「これから、いろいろ変革していきましょうね!」
「おー!!」
決意表明。意気投合。
そんな飲みでした。

驚くほど早い田舎のラストオーダー時刻を過ぎ(w)、夫が迎えにきました。
今度はこいつも入れて3人で飲みましょうね、と約束してお別れしました。夫は参加したくてしたくてしょうがない様子でした。w
あー、楽しかった!

後ろ指さされるかもですね。「あんた、結婚してるのにっ!」って。
しかし、夫も同様にさせてるので特になんともなかったりします。
女の子だらけの飲み会から上機嫌で帰ってくると、見ているこっちも嬉しくなったり、とか。

生活単位がひとりからふたりになる。
それならば生活範囲も交友範囲も、異性同性を問わず、ふたりになった分だけ広がる。はず。
一見シンプルだけど、これは夫婦の結びつきが問われることかもしれません。
でもそれを、いっちょ実践してみたいんですよね。
相手に必要な交友範囲を認められず、束縛したり嫉妬したりするんだったら、それは夫婦になるだけの絆が足りなかったってこと。最初から一緒に生活しなければよい。
その点において、ぼくらの価値観はピッタンコです。

ただし、これは今のところでの話。
絆ってゆーもんは努力しないと続かない!って思っています。
お互いの価値観も、対話を重ねながら、常に修復して、塗り替えて、メンテナンスしていかないと、いつの間にか別のものになってしまうでしょう。
そもそも夫婦なんぞ、別の人間同士が一緒になってる訳ですから。
…と、いっちょ前なことを書いていますが、まだまだ考えが足りないです。
あ、そうそう。
私は、「以心伝心」っていう、相手をあてにしつつ相手のせいにするような言葉は好きではありません。www
脱ニートした知人が、別の知人を痛烈に批判しました。
彼もまたニート。

「俺はニートじゃないから。お前、俺と違ってニートだから。」
だそうです。
詳しくほじくると、もっと凄いこと言ってたらしいのですが。
きっと、定職につけたことが嬉しくて嬉しくて、つい気が大きくなったんだろうと思います。
でも、そんなこと言っちゃいかん。
「人は経済活動のみにて生きるにあらず!」みたいなことを言って、現役ニートの彼を励ましました。

そこなんだと思うんだ。
ニートっていう分かりやすい言葉が「勉強も労働もしないヤツ」と定義づけられて浸透したおかげで、
「労働にいそしむものの、うだつの上がらないヤツ」とか「就職が怖いから、とりあえず大学に籍を置き続けてるヤツ」たち(圧倒的に前者が多数でしょうけど)のスケープゴートになっちゃってるような気がするんですよね。

職場の憂さをニート叩きで晴らす!
未来の不安をニート叩きで晴らす!
…それって目的外使用じゃないかい。

あぁ、彼らにとって人生ってやっぱり経済活動なのかしら。
悪かーないけどさー、それだけになっちゃったらくだらない気がする。

はるですよ

2007年4月28日 思うこと
桜が一気に咲き、一気に散ってしまいました。
つくづく、こっちの春はスバラシイ。と思う。

暖かいところだったら、徐々に来る春の足音。
なはずなのに、こっちで迎える春はゴール付近の猛ダッシュのようです。
桜が咲き始める頃に水仙が満開!梅が満開!(フキノトウはもう終わってるかな。さすがに。)
で、桜が咲き始めたと思ったら凄い勢いで新芽の嵐!
校庭の木々はことごとくキミドリ色です。
なんだか、華やかな春を迎えています。

季節はもうすぐ初夏。
こっちじゃ、春なんてあっという間に終わってしまう。(きっと、秋もそんな感じなのかな。)
でも、その春は間違いなく濃い。濃いぃ。
えせフランス語風にしてみたら、ビックリするほど素敵ですね!
なわけない。
ジモティ生活突入です。

今のところ、なぜか初任者のくせにえっらい早い退勤時刻で退勤することができています。まぁ、早く帰れるうちは早く帰っておいた方がいいやね。
おかげさまで退勤後の寄り道ライフを楽しんだり、旬の野菜を調理して夕ゴハンに出したりしています。ごめんよ夫。
ちなみに夫は、怒涛の初任者生活真っ只中。帰宅時刻のすれ違いが夫婦のすれ違いにならぬよう、帰宅時刻のすれ違いの時間帯は買い物と料理と洗濯に充てています。

なんだかこれ、書いてて惚れ惚れするようないい嫁じゃないですか自分!
とりあえず、2DKの面積のうちいまだに1DK分を席巻している段ボールの山は見ないことにして語ってますからね。今。

そうそう。
気分はすっかりリヴレ・ド・ジモティなわけで、今日地元のスーパーでショッピングバッグを買いました(w)。
深緑色の素敵なトートですよ。
もしかしたら紀伊国屋バッグに見間違えられるかも!…って、そもそも紀伊国屋が存在しないな。こっちは。

最近近所にオープンしたデッカイ書店(紀伊国屋にあらず。デッカイといっても、こっちの他の書店との比較上ですのであしからず)に入り浸り、本を衝動買いする日々がようやく復活しました。
しかし、気がつけば買った本は旅の本ばかり。
前の日記にあった温泉本だって、その衝動買いの一部ですよ。
たたたたた旅に出たかったのか私は!!

ってな毎日です。
いやぁ、楽しいですよ。日常が。
この間、ゴハンを食べに夫と入ったお店で、明らかにADHD特性な感じの店員さんを見かけました。
(ADHD:注意欠陥・多動性障害の略称。30人に1人ぐらいの頻度で発生しています。小さい頃クラスによくいた「全然落ち着きのない子」は、実はこれだったという見方が最近では一般的になっています。いま、小学校の多くでは一人一人の行動を事前にスクリーニングした上で、そういった子に対しては“むやみに怒らない”個別の支援をしています。)

その店員さんは、
来客に水を持ってくるのを忘れ、テーブルの上を片付け忘れ、
客に呼ばれてあわてて水を持ってきながらテーブルを片付け始めて水をこぼし、
大急ぎでテーブルを拭いてオーダーを取りながらも、そのとき持っていた鉛筆の書きにくさにイライラし、
「すみません」を連呼しながら常に店内をせわしなく歩き回っていました。

その店員さんに向かって怒るお客さん。
ニヤニヤ笑いながら見ているお客さん。
そして、背中をちっちゃくしながら、あやまりながら、バタバタと動く店員さん。
多分この人、褒められたことなんてほとんどないんだろうなぁ。

これがADHDの子たちの将来なのか?と考えると、切なくなりました。
学校ではだいぶ定着してきたADHDに関する常識も、世の中に出たらまだまだ無力なんですね。
まわりの無理解。だけど、まわりの人たちも、どこをどう付き合ったらいいかわからないのかも。
こりゃもう、地道にいくしかない。

その店員さんが持ってきた夫の料理に、つけ合わせがなかったことに気づきました。
「怒らないで言ってね。」
「当ったり前でしょう。」
夫は店員さんを呼びました。店員さんは、つけ合わせを忘れたことに気づいてました。
「すみませんでした。申し訳ありません。」と店員さん。
「いいえいいえ。よく気づきましたね!」夫は結構大げさに褒めました。
店員さんの顔が笑顔になりました。
はぁ。よかった。

減点法で見るんじゃなくて加点法で見ていかないと。
こういうことの積み重ねで、なくした自信を取り戻してもらいたいです。
この土日、実家に帰っています。
お正月以来帰っていなかったので、年賀状届いてるかな〜と思って。
そしたら、一昨年結婚した友達からニギヤカな年賀状が届いていました。

2006年に夫婦で旅をした場所の写真(夫婦満面の笑みつきww)のいくつかと、それぞれの写真のコメントと、妻作のふたりの似顔絵イラストがおさまりよくレイアウトされていました。
なんだかすんごく楽しそう。仲良さそうじゃんー!
差出人欄も、もちろん夫&妻の連名です。旦那さんにはまだ会ったことがないのですが、この内容だったら連名じゃないほうが不自然でしょう。
この夫婦にもし子どもが産まれたら、3人家族の楽しそうな年賀状が届くんだろうなぁ。
子どもが生まれると途端に子どもの写真だけの年賀状にシフトする人は多いものですが(子どもを盾にしている気がしないでもない…)、彼女たち夫婦はしなさそう。
「3人じゃなきゃ楽しくない」とか言いそう。w
でも、子どもがいなかったらいなかったで、これからも楽しげな年賀状が届いてほしいものだわいと、ニヤニヤしながら思いをめぐらせました。

ふと思う。
年賀状ってやっぱり、「楽しそうな」「自分の」ネタに勝るものはないんじゃないかなぁ。
(その人の中での価値観によって年賀状の受け止め方はピンキリだと思いますけどね。それを前提においた上で。)
どれだけスタイリッシュなものを作ってスマートに年賀の挨拶をしようと、そこに自分の実生活がにじみ出ていなければ、年賀状は単なる印刷パターン集の一部になりかねない。

もしも、「そもそも年賀状なんて形式だけでいいよ。面倒くさい」という人だったら、印刷パターン年賀状で目的は十分果たせるでしょう。
しかし、「年賀状を通じてわたしの何かを感じてほしい」と思っている人は、ちょっとダサくなってもいいから今の自分の姿をそこに表した方が、もらう側は嬉しいんじゃないのかな??ひょっとすると。

ここでの「自分を表す方法」は、できるだけ即物的なものの方がもらう側の楽しさと直結すると考えます。
写真入り年賀状ということでオーバーに例を挙げるならば、自分が精魂込めた趣味の風景写真(でも自分は映っていない)よりも、とりあえず撮ってもらった自分自身の写真の方が、もらう側は分かりやすい。
版画年賀状ということで例を挙げるならば、自分の好きなアールヌーヴォー調のこだわり版画(でもモデルは架空のもの)よりも、見よう見まねで彫った自分のボロスニーカーの絵に「←気づいたらこんなになってました」とか書き込んだ方が、もらう側はクスッと微笑む。
ベタですがベタでよい。いや、ベタの方が10倍上等!!
…こういう私なりの結論が出てきちゃいました。

もらった年賀状を額に入れて飾るような人はそんなにいませんし(いるとしたら、むしろ自分自身の送ったやつだろうなあw)、年賀状を眺めてる期間って短いですよね。
そう考えるとセンスってどうでもいいのかもw。
私自身も、やたらデザインめいた木版画を毎年彫り彫り刷り刷りしていた時期がありましたが、それだけではもらう方はつまらないだろうなということで宛名の面は半分から下を文面とし、さらに下隅に自分のプリクラ写真を貼っていました。どこかに気の抜けた部分をつくらないと、キメキメの年賀状なんて恥ずかしいものがありますので。

年賀状をもらう相手は離れていることが多いという現実を考えると、先にも書いたように「今のあなたのセンスを知りたい」というより「今のあなたの姿を知りたい」という意思の方が強いんじゃないのかな。
年賀状だけのつきあいの人も多いでしょうし、そうなるとカッチョイイ年賀状が届いたところで、年に一度の挨拶なのに相手のセンスの片鱗にだけ触れてどうすんだよと思ったりしませんか。
相手の現況を全然知ることができないじゃないかと。w
「現況だったら、吹き出しつけてコメント入れたから大丈夫だよ」というアナタ。
コメント、確かに結構。でも、相手が見たいのは第一にアナタの姿や形なの!!
この年になってようやくこのことが分かりました。むしろ年齢を追うごとに身につく感覚なのかしら。

自分のセンスと「今の私はこんな感じです」という表現がどちらも優れていれば(例:ものすごく上手い自画像とか、超ナイスバディな自分のグラビアとか…こんなのいないかw)、年賀状としての完成度は高いでしょうけど、もはや年賀状じゃないような気がしないでもない。
それに、ものによってはお寒い自己陶酔の香りがしないでもない(w)。
そうなると、意識してでも「ちょいベタ」な姿を目指さないといけないのかもですね。

まだ間もないことですが、私らのベタベタな「結婚しました」年賀状が届いたことに喜び、いつまでも酒の席で話のネタにする夫の上司(の酔った顔)を思い出しました。
と同時に、年賀状に先んじて結婚しましたハガキを送付していた人には「筆ぐる●」からのテンプレート年賀状を出してしまったことを後悔しましたよ。
ああいけない。来年はがんばります。
昨日学習参観で1年生を相手に、健康な生活習慣の大切さの授業をしました。
健康な生活は、体だけじゃなくて心にも頭にもいい働きをすること。
自分の生活習慣を振り返ることは大事だということ。
生活習慣の問題点を見つけて直そうとがんばる人は偉い!ということ。
などなどを、ppt資料を用いながら、ものすご〜〜くかみ砕いた言葉で話しました。
1年生の子たちが飽きることなく授業についてきてくれたこと、担任の先生に上手く補足してもらえたこと、感想をびっしり書いた子が多かったこと等々、なんかもう感謝感激な授業でした。

学習参観のあとは、生活習慣について保護者の方々との懇談会をもちました。
そこで「うちの子、冬場は起きるのが本当に遅くて…全然起こしても起きないんですよ。どうしたらいいんでしょうかね?」という質問をうけました。
就寝時間の問題かな…朝の着替えや洗顔はちゃんとできるのかな…等々資料をめくりながら必死に答えを出そうとしていると、隣りにいた先生が「私、答えてもいいですかね?」と、助け舟を出してくれました(照)。

「うちの子どもの場合ですけど、私はこうしています。」
先生が語り始めました。
「起きない子どもを前にして、親である私も、必死に起こそうとします。
うちの近所では登校班の集合時刻が決められているし、親の私たちも出勤時刻がありますからね。
具体的には、布団からそのままかついで持って行きます。そうやって食卓まで連れて行っても起きない場合は、玄関に放り出します。
『あんたより小さい子だって、集団登校に遅れないようにしっかり朝ごはんを食べて、学校に行く準備をしてるんだよ!
時間になっても起きられないなんて言ってグダグダしているような子には、朝ごはんなんて要らない!
そうやっていつまでもぐずぐずしてなさい!!』というような感じで、かなり強い口調で叱りつけます。
子どもは、めそめそ泣きながら登校の準備を自分で始めますよ。
そうやって生活習慣の重要さを知って、自立した生活を身につけていくんじゃないんですか?
生活習慣がなかなか子どもに身につかないという話をよく聞きますが、ご家庭では親として子どもと真剣に向き合って、伝えようとしているでしょうか?
まずはお子さんと真剣に向き合うことが大事ではないかと私は考えます。」

私も指導者として懇談に呼ばれたはずなのに、その先生の話に聞きほれ、
うっかり涙をこぼしそうになりました。

子どもを本気で叱れる親が減りました。
それは、親の自分にとって、いつもカワユイ存在でいてほしいから?
それとも、一見建前じみたことを今さら子どもに伝えるのが面倒くさいから?
子どもをもたない私には、まだ憶測でしか言えないことですが、実際に怒れない親から派生したメチャクチャな子どもは今までの経験でそこそこ目にしています。
ずっと可愛がりたいならペットでも飼えっつの!
ホント、子どもってこんなときいつも親の犠牲者なんですよね。かわいそう。

今日読み終えた本(崩食と放食)の内容にも合致するところがあったので、書きました。
最近めっきり活字中毒です。
次に読む本を確保して読書にふける毎日。
爆笑問題の太田光(膨大な量の本読みで有名ですね)が「俺は、どんなブスでもどんな嫌な奴でも、そいつが勧める本があったら、本だけは読もうと思う。とにかく本に対する偏見は全然ない」というようなことを以前TVで言っていました。
活字のかたまりがあると読みたくなる最近、太田氏の言うことに共感できつつあります(w)。
http://sagisou.sakura.ne.jp/~sakuchin/kazumi/05/97.html

重箱の隅をつつくのが大好きな私のために作られたようなサイト
「さくらさんちの内緒話(2ちゃんねるの抜粋から成り立っています)」の、
最近の注目記事です。

内容に激しく同意!!
新年会というものに出席してきました。
場所は…夫の勤務先の校長先生の家です(焦)。

最初は駅までの送り迎えだけかと思っていたんですが…。
夫を送り届けたあとのんびりと洗濯をし、近所のコインランドリーの乾燥機にまとめて放り込んで、夫もご馳走を食べているのだからとイタ飯屋さんでランチを楽しんでいたところ、いきなり電話が。
「なんか話の流れで、校長先生がお前の顔を見たいって言ってんの。来てくんない!?ってか急いで!!」
「ひえぇ!!」

あわてて店を出て車をすっ飛ばす。
えーと…家に呼ばれるわけだから手土産も必要だよね…面倒くせぇ!!
そんなこんなで急いで校長先生の家に着き、おそるおそる玄関の戸を開けたところ…中は既に大宴会たけなわ状態でした。
すんんんんごく酔っぱらった先生に「ようこそ!」と誘導され、校長先生には「おっ!奥さん登場!!なんか似たもの夫婦!?いやーよく来たよく来た!!」と上座に通され、アハ〜すみませ〜ん夫がお世話になっておりますぅ〜と適当に挨拶なども済ませながら、飲みに突入しました。
夫は既にベロンベロン状態でした。トホホ。
ま、とりあえず顔を売れたからいいかな?夫の勤務先の人にきちんと挨拶したことなかったから、よしとしましょう。
うん、そうだ!飲もう!

校長先生が「学校はファミリーである」という理念をしきりに強調しておられてました。こういう新年会もその延長なんでしょうね。
最近学校現場にもビジネス的な概念が多く取り入れられていますが、組織で動くという仕事の性格上、また特に最近は現場で起こる問題が多様化してることもあって、そこで「みんなが家族である」という昔ながらの職員組織のあり方を大事にするのっていいのかもなーと改めて思いました。

飲みながら熱く語る先生もいました。
「最近の若い教師はね、教員っていう自分の立場を単なる仕事としか思ってないんですよ!だから仕事以外のつきあいには参加しないし、部活も面倒なのは避けるし、自分の仕事も最低限しかしないし!!俺はね、教師っていうのはそんな一面的な職業じゃないと思うんだよ!!」
グサッ!適当主義はまずいのか、やっぱし…。人のふり見て我がふり直せ。

異論反論は沢山あると思いますが、この先生の意見も大事にしたいです。
「私は学校でだけ先生をしていればいいの」という考えは、ストレス回避のためには大事ではあるけど、子どもの人生を受けとめて育てるという私らの職業の性格を考えると、この先生の言うとおり一面的と言わざるを得ない。
なんというか、教師って、簡単に割り切れる仕事じゃないですよね。
ときに全人的に関わらなければいけない仕事も沢山あります。どこまでが仕事なのかも、そもそもあいまいなところがありますし(日本の教師は特にそうですね)。
だからいっそのこと、割り切らなくていいんじゃないのか?と思うことがあります。

そそ。いつも教師でいればいいだけのこと。
いつも教師でいる自分を笠に着ることなく、かといって卑屈に思うこともない精神状態にもっていくためには、日々を充実させることに尽きるんじゃないでしょうか?
極端な話、先日「おりがみでツルをおろう」というマンガを発表した漫画家さんのように、仕事自体はものっっっっっすごく寡作で、ほとんど描いてないじゃないか!ってな感じの仕事ぶりでも「自分が漫画家だということを考えなかったことはないです」と堂々と言えるってことは、自分の仕事が数や結果では計れなくても、充実してるから誇りをもってるんだろうなぁってことで。
成果主義じゃなくて、あくまで自分の心の中の充実が大事なんでしょうね。
(突拍子もない例えでスミマセン;;)

「いつも教師でいつづけるなんて嫌!」という気持ちが起こるときって、大抵は仕事が面白くないときですよね。
教師なんて嫌!って思う気持ちは、私の目指してる教師は違う!っていう意欲の裏返しだと思います。
その気持ちに気づかずにいると、いつか適当主義の教師が出来あがるのかな。
さっきの先生は、そんな教師と関わってきた愚痴をこぼしていたのかな。

短い時間でしたがプロ教師集団にもまれ、多くの示唆に富んだ飛び入り新年会でした。
しかし酒飲みすぎだよ!!!
日本酒どんだけ空けてるの!!!
…そして洗濯物は今もコインランドリーで主人の迎えを待っています。
酔いが醒めたらいきますよ(泣)。

最近すごく人気ですよね?
マンガに始まり映画もドラマも大人気。
なんだかよくわからないけど同世代の女の子たちの共感を得まくってますよね??実際サッパリわからない次第ですが。
登場人物の心理分析を香山リカ先生がやってのけてたりして、あーこの人は常に時代とともに歩んでる本を出してくれるよななんて思ったりしてもいました。うんうん。

しかし私はまだ一度もマトモにNANAを読んだことがなかったので、マンガを途中まで読んだという親友に「NANAってどんなんなん?」と尋ねてみました。
彼女いわく。
「あぁ。途中まで読んだけど、ひとつとして共感できる部分がなかったよ。」
…あぁーーやっぱり見たまんまか〜!あのまんまか〜!!
売れてるからちょっとかじってみようかなと思ったものの、なんだか見かけるたびに萎えてたんですよね。
私の目に狂いはなかった!?(それとも私と彼女の目だけが狂ってる!?笑)

一連のYoshiの小説しかりNANAしかり、最近ちまたでヤンキー文化が繁栄しているのは何故でしょうか。
今度研究してみます。資料収集としては、とりあえずブックオフに行ってみるのが一番手っ取り早いのかな。うは。